『危険と管理』第36 JARMS双書No.24
「自然災害とリスクマネジメント」
2005年3月

ま え が き

 

―自然災害と危機管理シンポジウム開催によせて―

 

 「平成7年兵庫県南部地震」(以下「阪神・淡路大震災」という。)が発生してから10年が経った。死者6,433人、行方不明3名、重軽傷者43,792人、いま思うだけでも胸が痛む。その他、物的損害は計り知れない。当時、日本リスクマネジメント学会では、文集「阪神大震災とリスクマネジメント」の刊行(3月)、シンポジウム「地震災害とリスクマネジメント」の実施(4月)により、地震リスクマネジメントの研究をアピールしてきた。そして、昨年の早い時期に、日本リスク・プロフェショナル学会と共催で、阪神・淡路大震災10周年記念シンポジウムを実施しようと準備に取り掛かったのである。

 思い出すのも痛ましいが、平成16年は災害の当たり年であった。7月には新潟・福島の広範囲の豪雨、続いて福井の局地的豪雨により多大の損害が生じた。死者・行方不明者は合計21名であったが、特に、三条市だけで死者7名を出したのが特筆される。私事で恐縮ながら、同市に居るゼミOG生の家族が逃げ遅れ、恐怖の一夜を屋根上で過ごした後、ヘリコプターで救出された。

 10月には、台風22号が被害をもたらしたと思うまもなく、23号が来襲。過去20年で最大の被害といわれる災害をもたらした。富山港に避難停泊していた海の女王「海王丸」の浸水、京都府でのバスの水没。乗客がバスの屋根で一晩過ごし、長野県ではJR飯田線が脱線転覆したなど記憶に新しい。

 1023日午後556分、私は小山市にある白鷗大学法科大学院の研究室に居た。その瞬間に電波時計を見た記憶があるが、正確には58分ころであったろうか。サイクルの短い縦揺れの後、ゆったりとした大きな横揺れが来た。遠くで大きな地震が起きたなと思っていると、10分ほど後に大きな余震が来た。小山では、本震よりこの余震の方が大きく感じられた。あわてて本棚を押さえた。果たせるかな、大地震の発生である。「新潟県中越地震」と名づけられたその地震は多くの課題と教訓をもたらした。同僚教授が脱線した新幹線に乗っていて、その瞬間を生々しくラジオで証言されていたのが印象的であった。死者40人、負傷者2,867人であったが、話題性に事欠かなかった。

 リスクマネジメント学会では急遽、【危機管理シンポジウム】「阪神・淡路大震災10周年および新潟県中越地震に学ぶ」とテーマを拡張し開催を待つばかりとなった。しかし、災害は止まることを知らない。

 1226日、有史以来、最悪の人的被害をもたらしたスマトラ地震・インド洋津波が発生した。126日現在の情報では、死者15万人、行方不明者145千人、負傷者50万人と報じられている。早くも16日には、インドネシアにおいてASEAN主催緊急首脳会議が開催され、わが国からは小泉首相が参加された。大災害は痛ましい限りで、ASEANに限られず、国連を中心に各国が援助の手を差し伸べている。

 津波襲来時の写真を見ると、海辺にいる人の間には、逃げようともせず呆然として海を見詰めている人も居た。逃げ場がないだけではない。津波を知らないのだ。事実、漁師の証言でも津波をまったく知らなかったという。それに比べると日本人の津波に対する感性は優れているといえるかもしれない。平成5712日に発生した「平成5年北海道南西沖地震」のとき、某テレビ局に属する取材班が奥尻島の民宿に居り、地震発生後、民宿の女将さんに直ちに避難するよう勧告され、津波警報が出る前であるので半信半疑の気持ちであったが、大急ぎで高台に避難してぎりぎりで助かった、という手記を某雑誌で読んだが、この女将さんの地震津波に対するリスク感性は素晴らしい。この鋭い感性のおかげで、テレビ取材班は命拾いをしたのである。しかし、津波の多い紀伊半島の某市の調査によれば、昨年のこと、津波警報が出たにもかかわらず避難した人はわずか20パーセントであったと報じられ、市民のリスク感性が疑われた。もっとも、警報の発信システムに問題があったのかもしれない。

 日本に大きな被害をもたらした昭和35年のチリ地震津波は警報なしであった。ハワイ島では10メートルを越す津波に襲われ大被害が出た。これは直ちに日本に通報された。しかし、日本に津波が到達すると予想しなかったのであろうか、ハワイの津波通報は日本の津波警報に結びつかなかった。いきなり津波に襲われ、死者142名、全壊家屋1500棟を出した。現在のような警報システム構築以前であったとしても、ハワイの津波損害を知りながら、津波警報が出されなかったのは、まさに感性の問題ではなかろうか。特に、明治10年のチリ地震津波で函館で被害、房総半島で死者も出たのであるから・・・。

 118日から22日まで、神戸において国連防災世界会議が開催された。小泉首相は歓迎の挨拶中で、「稲むら(叢)の火」に言及している。その部分を外務省ホームページから引用してみよう。

 「いまから150年ほど前に巨大な地震とそれに続いて津波が発生したときに英雄的行動をとった、ある村の庄屋の話が現在まで伝えられています。彼は、地震の直後、海岸からはるか沖まで波が引いていくのを見つけました。津波来襲にまつわる先祖代々の言い伝えを思い出し『これはきっと津波が来る』と考えました。しかし、村人すべてに事情を説明して回るいとまはありません。そこで、即座に、村で収穫された稲の束に火をつけ、これに気づいた村人たちを高台に誘導しました。この迅速な判断と行動によって、村を襲った津波から多くの村人を救ったのです。」「その後、私財を投げ打ち、村人と協力して、集落の面する海岸に大きな堤防を築きました。彼の作った堤防は、それから90年後、再び村を襲った津波の際に、多くの命を救いました。」

 前段の物語は、1854年、江戸を壊滅させた「安政東海地震」の翌日に発生した「安政南海地震」の時、紀州有田郡廣村の濱口儀兵衛(後に「梧陵」と称す。)の実話を、1897年、ラフカディオ・ハーンが“Gleanings in Buddha−−Fields”の中の“A Living God”の章で紹介しているが(ボストンとロンドンで出版)、後に儀兵衛と同郷の小学校教師中井常蔵氏が物語りに書き改め、小学国語読本巻十に収録された。約1000万人の児童に感銘を与えた(村山武彦・防災システム研究所ホームページ「稲むらの火」参照)といわれている。筆者にとっても懐かしい小学5年生の記憶であり。現広川町役場前の「稲むらの火」広場に記念プレートとして展示してある。昔のままの教科書体、しかも懐かしい本字で3頁、このほど見学してきた。実はこの物語は、濱口儀兵衛34歳の時の出来事、松明(たいまつ)を掲げた銅像が同所にあるが、かなりの年配に見える。梧陵翁の銅像はもう1体ある。耐久中学校のグラウンドの西端に2本の巨大なソテツがあるが、その間に東に向いて高台を設け、ソテツよりなお高く、近くで見ようとするとあまりの高さに青空が背景となり写真が撮りにくい。フロックコート姿の堂々たる威厳に満ちた青銅製の像であった。

 首相後半の話は実話である。目測したが、下底部約20メートル、上底部約5メートル、高さ約5メートルの堤防である。昭和21年の南海大地震後の津波は、この堤防のおかげで被害が少なかったと聞いた。しかし、堤防の尽きた先にあった某紡績工場の女工宿舎では、津波が深更に直撃したためか、大勢の女工の方達が水死された。痛ましい限りである。

 いま、現地を訪れると、稲むらのあったはずの田んぼは、減反政策のあおりを受けて、みかん畑になっている。しかし、往時をしのぶに不足はない。

 隣町の湯浅町に深専寺がある。JR湯浅駅の北西数分、海岸から東方に上り坂となっている。ここに和歌山県指定文化財「大地震津波心得の記念碑」がある。梧陵翁が築造した堤防から歩いても15分程度の距離である。この碑は、津波の被害の怖さ、俗話の不正確のこと(地震前に井戸水が減るなど)、地震の時は浜辺に出ずこの寺の前を通って東方向へ逃げよと諭している。なお、碑文中「嘉永7年」とあるのは「安政元年」のことであり、稲むらの火と同じ津波のことを述べていることになる。

 このように、自然災害を受けて、本学会の【危機管理シンポジウム】「阪神・淡路大震災10周年および新潟県中越地震に学ぶ」もさらに津波リスクをも加えた広範なものとなった。市民を含む約120名の出席者を得て、亀井利明教授(日本リスク・プロフェショナル学会理事長:関西大学名誉教授)司会の下、3名のパネラーと1名の15分スピーチ、その後の1時間に及ぶ討論はまことに有意義であり、阪神・淡路大震災の記念行事にふさわしいものとなった。

 この記念行事を終えて、いま私は思う。自然災害の事前対策、渦中対策、事後対策を問わず、かかる善後策の必要性と重要性を肌身に感じる知識と教養・・すなわち感性の養成こそ大切であり、そのためには国民に対する早期の教育と災害を忘れさせない施策が必要なのではないか。その意味で、「稲むらの火」「大地震津波心得の記念碑」はどれほど人々の津波リスクに対する感性を養ってきたことか。今年113日に行われる「津波祭」に参加したいと思っている。役場前の「稲むらの火」広場に集まり松明を持って、火をつけた稲むらの上手にある広八幡神社まで行進するのだそうである。

 最後に、本シンポジウムのために多くの資料を賜った日本損害保険協会及び毎日新聞社に深甚なる誠意を申し述べる。

 

2004127

理事長 戸 出 正 夫